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日本の忍者まとめ

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忍者はスパイ活動のほか、妖術、盗み、武道等様々な能力を持つ者も「忍者」にカテゴライズされるものとするが、基本的には諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺などを仕事とする者と定義する。

 

忍者の存在は公からは隠されているのが普通であり、その存在を証明できる史料は数少ない。だからこそ、一度まとめてみたい。

 

藤原千方(ふじわらのちかた)

平安時代に伊勢~伊賀にかけての地域で勢力を持っていた豪族。金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四鬼を従えていたとされ、その特殊能力が忍術の原型であるとされている。『太平記』では力におごった千方が朝廷に高い地位を求めて反乱を起こすが、紀朝雄が和歌を詠み四鬼は退散、千方は瀬戸ヶ淵で討たれた。

 

伊賀崎道順(いがのさきどうじゅん)

戦国時代の伊賀流忍者で楯岡ノ道順とも呼ばれる。伊勢の北畠氏、近江の六角氏、徳川家康に仕えたといわれている。敵陣へ侵入し錯乱する技に長けていたといわれ、六角氏が百々氏討伐に苦戦していた折に道順に白羽の矢が立ち、城内を疑心暗鬼にからせたところへ六角勢が攻め込み見事城を陥落させ、「佐和山に百々(どど)ときこゆる雷も 伊賀崎入れば落ちにけるかな」と詠われたほどであった。

 

出浦盛清(いでうらもりきよ)

戦国時代から江戸時代初期にかけての忍者・武将。武田家、森長可真田昌幸真田信之に仕え、真田十勇士の一人である霧隠才蔵のモデルとなった人物。横谷左近幸重とともに忍者集団棟梁の双璧と称された。

 

横谷左近(よこやさこん)

戦国時代から江戸初期にかけての忍者で横谷庄八郎の兄。本名は横谷幸重。真田家の家臣で信濃国上田~上野国沼田近辺を拠点としていた。出浦盛清と忍び衆の棟梁を務めた。関が原の合戦以降は真田信之に仕え、弟の庄八郎と袂を分かつ形となった。

 

横谷庄八郎(よこやしょうはちろう)

戦国時代の忍者。真田氏の配下横谷左近の弟で本名は横谷重氏。真田十勇士猿飛佐助のモデルと言われる。関ヶ原の合戦以降真田幸村に仕え、大阪夏の陣で討ち死にしている。

 

上月佐助(こうづきさすけ)

戦国時代の伊賀国下忍。下柘植ノ木猿(しもつげのきざる)ともいう。横谷正八郎と同じく真田十勇士猿飛佐助のモデルとなった人物といわれ、猿を使った特異な忍術を使ったといわれる。

 

唐沢玄蕃(からさわげんば)

戦国時代の忍者で武田家、真田家に仕えた。その身軽さを 「飛び六法」と称され、助走なしで1.8mも飛び上がり、12mの高さから飛び降り音を立てずに着地したとされる。また、跳躍術に加え火薬術にも長けていたといわれている。敵城から金の馬鎧を馬ごと盗み出したという逸話も『加沢記』に記録されている。初代と2代目がいる。

 

霧隠鹿右衛門(きりがくれしかえもん)

出浦盛清と同じく真田十勇士霧隠才蔵のモデルとなった人物。霧隠鹿右衛門自体が江戸時代の軍記物『真田三代記』(当時の歴史小説のようなもの)に登場するだけなので、そもそもが実在の人物かどうかも不明だが、伊賀忍法の使い手で百地三太夫の弟子といわれている。

 

百地丹波(ももちたんば)

戦国時代の忍者で実在の人物。伊賀忍者の上忍三家のひとつで、伊賀流忍術の祖といわれている。架空の人物である百地三太夫のモデルとなった。天正伊賀の乱織田氏の侵攻を一度は防いだものの、5万の兵を率いて再度侵攻してきた織田信長軍の前には多勢に無勢で戦死したといわれる。

 

石川五右衛門(いしかわごえもん)

安土桃山時代の盗賊。伊賀流忍者の抜け忍で百地丹波の弟子ともいわれている。古典芸能から映画まで忍術使いとして描かれた作品が多数存在する。百地に対して不義理をはたらいたという悪しき言い伝えがある一方で、時の権力者であった豊臣秀吉を狙ったことから庶民のヒーロー的な扱いもされている。釜茹でで処刑された。

  

加藤段蔵(かとうだんぞう)

戦国時代の忍者で上杉謙信に仕えた。謙信の命令で敵対する大名家から名刀を奪っていた。「飛び加藤」の異名を誇りあまりに優秀すぎたため謙信に暗殺されかけ、武田信玄の家臣となった。だが信玄からも警戒され武田四天王の一人である馬場信房に暗殺された。

 

 鹿折信濃(ししおりしなの)

下鹿折時兼ともいい、戦国時代に伊達政宗が創設した忍者集団「黒脛巾組」に属したといわれる。清和源氏の末裔である及川三家の本家にあたる。葛西家臣であったが浜田広綱の乱で謀反をはたらいたことにより滅ぼされた。

 

竹永隼人兼次(たけながはやとかねつぐ)

戦国時代から江戸時代の武術家で「黒脛巾組」。「柳生心眼流」の開祖といわれ、時の将軍家指南役であった柳生宗矩から学んだ柳生新陰流や神眼流、首座流、神道流、戸田流がもとになっている。

 

高坂甚内(こうさかじんない)

戦国時代から江戸初期にかけての忍者。武田四天王の一人である高坂昌信の子とも孫ともいわれる。武田家臣として甲州流透破の頭領であったが、関ヶ原の合戦以降は関東一円の治安安定を任され、鳶沢甚内(古着商の元締)、庄司甚内(遊郭の元締)と共に「三甚内」とよばれた。北条氏の没後盗賊として暴れていた風魔小太郎を制圧し、甚内自身が巨大勢力となったために幕府から手を切られ、市中引き回しの上に磔の刑に処された。

 

風魔小太郎(ふうまこたろう)

戦国時代に北条家に仕えた風魔党棟梁の代々の名前であり、北条氏政に仕えた5代目風魔小太郎が最も有名。小規模部隊で敵陣に乗り込み、敵の馬や武器を奪って夜討ちをかけるといった戦術で暗躍したといわれる。北条家滅亡後は江戸近辺を荒らし回る盗賊に成り下がり、高坂甚内の密告により徳川家に捕縛され処刑された。

 

服部半蔵保長(はっとりはんぞうやすなが)

戦国時代の忍者で初代服部半蔵。伊賀上忍三家のひとつ。伊賀忍者室町幕府12代将軍・義晴に仕えたが、衰退する幕府に見切りをつけて松平氏に仕えることとなった。。

 

服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)

服部半蔵保長の子であり2代目服部半蔵。保長の家督を継ぎ徳川家康に仕え、姉川の戦い三方ヶ原の戦いで戦功を重ねた。徳川家の旗本であり、「服部半蔵」というと一般的には正成を指す。厳密には正成自身は忍者ではなく、伊賀忍者を管轄下においていた武将である。今も残る「半蔵門」は、正成の屋敷が門前にあったことから名付けられたという。

 

服部半蔵正重(はっとりはんぞうまさしげ)

服部半蔵正成の次男であり、兄正就(3代目服部半蔵)の後を継いで4代目服部半蔵を襲名した。大久保長安事件に連座して失脚した後、桑名藩主・松平定綱(定勝の子)に召し抱えられて、桑名藩家老として服部半蔵家は存続した。

 

藤林長門守(ふじばやしながとのかみ)

戦国時代の伊賀上忍三家のひとつ藤林氏の当主。甲賀側にも多く配下を抱えていたとされ、大きな影響力を持っていた。天正伊賀の乱で戦死したとも織田家に寝返ったともいわれるが、記録が残っていないため真相は不明である。

 

鉢屋弥之三郎(はちややのさぶろう)

戦国時代の忍者で鉢屋衆のひとり。尼子家に仕え、奇襲作戦による富田城奪回の功績者となった。

 

青山虎之助(あおやまとらのすけ

徳川家康に仕えた甲賀流忍者。三河一向一揆鎮圧の際に一揆側が立て籠もる上宮寺へ忍び込んだが、発見されてしまい斬首された。

 

滝川一益(たきがわかずます)

織田四天王の一人。甲賀出身で忍術と鉄砲に通じていたといわれている戦国武将。信長は伊賀と甲賀を両方滅ぼす予定だったが、滝川の説得により甲賀は織田家に従属した。

 

 イチロー(いちろー)

現役の忍者であり、野球選手っぽいこともしている。

 

 【関連本】

こども向けの絵本にしては内容がしっかりしていて資料としても使えるオススメの忍者入門書。