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「マイホームは所有すべきでない」に対する雑感


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ネットサーフィンをしていると色々な情報や意見に触れられるわけだけど、ちょっと気になるエントリがBLOGOSにあったのでモノ申してみることにした。


■資産は所有すべきだろうか?

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元記事
http://blogos.com/article/45963/

まず言いたいのは、「資産」と「消費商品」の区別がついていない。そもそも自動車やマイホームは資産ではなく「消費」する商品である。

「マイホーム」を資産として見るのはおそらく保有不動産をバランスシートに載せられるという会計上の観点なんだろうけど、それはあくまで会社経営においてであって、各世帯の家計簿にも同じことが言えるかといえばまったくそうではない。

間違っている。

なぜなら、その「保有不動産」には実際にその人(と同居人)が住んでいるわけで、売却して換金するということが現実的には考えられないからである。もっと言ってしまえば、「マイホーム」として融資を受ける場合は不動産価値が過大評価される傾向もあったりするから、売却時に元本割れしているケースなんてザラにある。そこでまた買う側に過大評価された融資を受けさせてというイタチごっこなのがマイホームの資産価値の世界である。

自分が住んでいなくてほったらかしにしてある不動産や、誰かに貸して賃貸経営をしている不動産であれば、換金できるため「資産」と言って良いだろう。

ここで言う「資産」については、あくまでも現実的な観点から定義している。そして「マイホームの資産性云々」という議論をする場合には現実的な観点から「資産」を定義しないと、まったく議論がかみ合わないし成立しない。

という意味で間違っているということだ。単なる個人的な見解の違いという話ではない。

20年くらい海外在住の人だしちょっと感覚が違うのかな、という感想を持った。

結びの「所有し、貸し出すビジネスは今後更に花咲くということになりそう」という部分いついてはまったく同感である。ここまでわかっているのであれば、不動産というものの用途による本質の違いに気付いてもよさそうなものだが・・・。

あと、このエントリの後半でも書くけど不動産の資産価値は誰に算出させるかによってだいぶ違う金額が出る。

買い取り業者に査定させれば大手中小問わず当然低い査定を出されて安く買い叩かれるし(もっともらしいレポートを出されるのが厄介だったりする)、基本的に不動産価格は買い手と売り手の間で決定するものだという感覚は持っておいた方が良い。

仮に相場が5,000万円とされている戸建てで残債が5,100万円残ってたとしよう。相場で売れば元本割れだし、売却時の諸々の手数料を加えたら確実に損をしてしまう。でももしそれを欲しい人が2人同時に現れたとしてそのうち1人が「5,500万円出すから私に売ってください!」と言えば、元本割れはおろか手数料を差し引いてもお釣りが残る。

一方で売り手にとってはそこが代々伝わる特別な思いいれのある土地だったりすると、5,000万円が6,000万円でも「おめえには売らねェ!」なんてことになるケースもある。尖閣諸島の売買のケースも極端な例だが根底にあるのは金額だけではないという部分では同じだ。

不動産というのは、自動車や生活用品のようにどれも同じものが大量に販売されているわけではない。日当たり、管理状態、周辺環境、設備、デザインの好み、部屋に入った時に感じる空気等々、同じマンションの同じ間取りの部屋であっても301号室と302号室はまったく別の唯一無二のものなのだ。

公的な地価でさえ「公示地価」や「路線価」のように複数の基準があり、売り手が売りたい価格、銀行が査定した価格、不動産会社が査定した価格、ポータルサイトやオークション等でなんとなく形成された相場(これがいわゆる「市場価格」)、そして買い手が妥当だと考える価格。

そして決められた価格を高いと思うか、妥当と思うか、低いと思うかは人それぞれだ。

ゆえに、不動産取引に関しては他の市場の常識とは切り離した視点で考える必要がある。



■安定し持っている物が多い人ほど閉塞感を感じ、不安定でも時間と自活能力がある人は輝いている

元記事
http://blogos.com/article/45743/

この考え方については取り上げている書籍の2人の著者を引き合いにだしているだけなので、エントリの著者を批難しているわけではないと初めに断っておく。

リアルでからみの無い人をディスる時は議論をディスって人格をディスらないというポリシーがあるので、ちょっと気が引けることを言わざるをえないのが心苦しいのだが、ローンを借りるには属性的にキビシイ人だから、提唱している「所有しない」というのは「所有する」選択肢を閉ざされた僻みによるものではないか、と、大変申し訳ないけれどもそう思ってしまう。

そもそもライフスタイルの利便性や機能性の向上のための「マイホーム」というよりも、衒示的消費による面の方が大きいように思う。つまり誇示のためだ。そこには「賃貸と所有の損得」という観点からの比較ではなく、単にマイホームを所有しているというステータスのためである。

人の消費行動が有用性だけによらないなんて当たり前のことではないか。

だから、賃貸雑誌で何度も何度も企画として取り上げられる「賃貸派vs購入派」の議論は本当にくだらないと思う。

話を元に戻すと、「その歳でまだ賃貸に住んでるの?(プッ」って言われないための空気づくりに必死になっているだけだと、個人的には見えてしまってならないのだ。

だいたいモノを持たないライフスタイルを提唱しているのは、フリーかほぼフリーのような零細企業の代表者の立場の人たちばかりだ。

ましてやここで登場している2人の著者は社会からドロップアウトして独自の社会を形成しようとしている人たちである。

そもそもの現実問題として銀行はフリーの立場の人にはあまりお金を貸したがらない。借入をしようと思っても否決されたり必要額よりも減額(5,000万円の家を買うのに4,500万を借りたいけど2,500万しか貸してもらえない等)されてしまう、ということだ。

ちなみに年収が5,000万円あるフリーランスと年収500万円のサラリーマンや公務員だったら、後者の方が信用力は高い。



■不動産は「資産」なのか

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話は変わって、不動産の価格については国家資格に守られた世界であることと税制によるところが大きい。

これについては実際の思惑は知らないが、きっと国策だろう。

また、マイホームとしての価値と投資用不動産の価値はまったく別の論理で形成される。

収益用の場合は築年数による制限がかなりかかるのに対して、マイホームの場合は築年数の制限が甘い。例えば築25年のマンションを収益用として購入する場合は最長で5年しか組めないが、マイホームとして買う場合は最長で35年組めるという具合だ。

価格については、両方とも不動産鑑定士らが地価を算出し、それをもとに銀行が融資評価を決定し、不動産会社はそれを基準に販売価格を設定するのだが、銀行はそれだけを判断材料にしたりはしない。

賃料収益による収益還元法によって価値を逆算する方法をとるのだが、例えばマンションの分譲会社であればその賃料をほぼ確定値として設定する。そして分譲後の賃貸管理も分譲会社が請け負ったり、あるいは他社へ投げて借上保証を付けたりして、そこで定めた賃料収益に対して4〜5%程度の収益利回りになる価格を逆算して設定するのである。

特に収益マンションの分譲はほぼワンルーム(単身向け)〜コンパクト(DINKS向け)のマンションであり、利用できる金融機関も限られる。割と閉鎖的な市場であるために、不動産会社と金融機関の決済権者のツーカーの話の中で融資評価が決まったりもする世界なのだ。

もちろんそこには不動産会社の利益ががっつりと乗っていて、不動産会社の利益と担当営業マン個人のインセンティブに充当される。

銀行によって異なるが、融資額の1%+手数料+残債に対する利息が、概ねの銀行の利益となる。高い金額で取引が成立すれば銀行もオイシイのだ。

関係する司法書士や保険会社にもそれぞれ手数料や保険料といった利益が落ちていく。

不動産取引の世界は免許事業ということもあり、多くの関係業者が儲かる仕組みが暗黙のうちに出来上がっている。

あえて穿った見方をすれば、「マイホーム否定派」はそういった既得権者たちへの反発で意見を形成しているのかもしれない。



■独自の社会を形成する生き方

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そもそもこのエントリでメインで言っているのはマイホームのことではなく、「手に職を持った仲間のネットワークを持っている人たちは強い」ということであり、そうでない人は「市場で必要な物・スキルを手に入れなければならなくなる。その分だけ、生きるためにお金が必要になる」ということだ。

これは自分の無力さにコンプレックスを持っている人ほど大手企業に入社したがったり、高価なものを身に付けたがったりするという心理にも通じるものがある。マイホームもそのうちのひとつである、ということだ。

ただし、「市場」にコミットできる人の方が現実的には強いと思う。つまり強者が作る常識に染まり、その他大勢のうちの透明な存在となり、こういうエントリではなく2chに名無しで書き込むことの方が、実際は色々と都合良く生きていけるはずだ。

小さなコミュニティを形成してその中で居場所を確保するのも、マスに迎合するのも自由であるが、良くも悪くも世界は経済を中心として動いていて、その経済の中心というのは日本で言えば銀行である。その銀行に「諒とされる」人物像に染まることは、フリーとしての「持たざる強さ」と比べても圧倒的に有利であるだろう。

選択肢がある、という意味で。

エントリの結びにある「進化だろうか?」に対しては、「いや、これは退化でしょう」と答えておく。

昨今の動向に目を向ければその方向に向かっている人はけっこういるのは事実だが、少なくとも向かうべき方向ではないように思える。

なぜならそのコミュニティの中で誰かが崩れたらおしまいだろうし、困窮しようとしている誰かがいる時に手を差し伸べられるだけの余力がある人がいない可能性の方が高いだろうと考えるからだ。

極端に言うとエントリ中の著者2名は、農作物を作れる人が食材を作り、料理ができる人が調理し、陶芸ができる人が食器を作り、工作が得意な人がテーブルとイスを作れれば、誰にもお金を払わないでも生きていけるっていう考え方を提唱しているのだが、そういった独立国家というか差別的な意味を含まないいわゆる部落は、過去の歴史でいくつも飢餓等で潰えている。

だから国家や地方自治体というものができ、ライフラインを支えるための行政を行うようになったのだ。そしてその運営のために徴税システムが存在しているのである。

まぁアナーキストが経済の権威である銀行や、銀行が事実上牛耳っている不動産市場を敵視しているというだけの話。そしてそういう活動をしている人はだいたい信念に基づいて生きているから輝いていて当たり前であり、輝いてないと逆におかしい。

だからあまり参考にしない方がよいというか、けっこう冷ややかな目で見て良いと思う。

・・・という結びで良いかな。


【関連本】

絶賛ロングセラー中!すぐに家を買う気がない人でも、今読んでおいて得られるものが多い本だ。