いろいろな「はてな」に触れるブログ

基本的には自分用メモの公開版です。オピニオンも書いていくかも。

ブラック企業のススメ


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■天才肌上司と雑草魂上司

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仕事ができる人間が仕切る組織では、できない人間の人間性はえてして無視される。無視しようという意識がなくても、管理者の目には映らず、目に入ったとしても頭で認識できないし、内心をうかがい知るよしもない。

もともと仕事ができない人間が、自己犠牲を払い努力の末、人の上に立てるようになると、そこでできた部下がもし仕事ができなくても、なぜできないのかがよく理解できる。よく理解できるから、対処方法がいくつも浮かび、原因を把握した上で自身の体験をもとにその部下をできる人間にまで引き上げられるのだ。

私は、新卒でいわゆる中小の「ブラック企業」へ入社した。

上司は暴力もふるうし、毎日終電まで、あるいは終電過ぎまで仕事をしていたこともあった。ホテル代は当然自腹であるし、治療費も自腹である。

当時の上司は直属、さらにその上の統括部長も天才タイプだった。一従業員の立場でありながら年収数千万のプレイングマネージャーだった。全身ブランド品で身を包み、数百万の腕時計を輝かせ、フェラーリに乗り、タワーマンションで優雅な生活を送っていた。

時として終電過ぎた日はそのタワーマンションに泊めてくれたり、フェラーリで自宅まで送ってくれたこともあったが、基本的には毎日仕事ができないことを人格否定を含めて叱責された。

心身ともに疲弊しながらも、ムチの中に上手に激励を混ぜモチベーションを上げられ、完全に私は上司の手のひらでコントロールされていたように思う。だが、そこには自分自身の自我というものは失われていたのだ。

私にとっては、今思えばその経験が活きている。

それまでは大きな失敗体験のない自信家で、叱られた経験も少なく、あらゆる場面で自分の非を認めず(意図的に受け入れないのではなく、非と認識しない)、根本から高い目線を持つ人間だった。

だが、もしそのままその自分を肯定され今に至っていたとしたら、もしかしたら、いや高い確率で社会の底辺生活を送っていたことだろう。

先日、深夜にある飲食店へいった。ひどくオーダーミスの多い店員だったが悪びれる様子もなく、腹が立つよりもなによりも哀れだと感じた。

自分の判断が必ずしも正しくないという自覚を持てないと、確認作業を怠る。自分は単純な聞き間違いを犯す可能性のある生き物だ、という自覚があれば、確認のために聞くという選択肢が浮かんでくるはずだ。この店員はそれができない思考回路になっているのである。

私の経験上、こういうのを補正するにはいわゆるブラック企業、つまり厳しい労働環境下で人格を否定されながら極限状態に追い込まれることが有効だ。荒療治だがちょっとやそっとのことでは変わらない。そしてその荒療治はブラックでも何でもなく、まっとうな社員教育である。

家庭で甘やかされ一切叱られることなく過保護に育てられると、大津市いじめの加害者少年、あるいはその保護者のような無責任で過ちに対して無自覚な人間になる。まったく自分が悪いという思いがない。社会生活を送る上で、特に日本社会のふるきよき謙虚なふるまいが一切できなくなるのだ。

表面的には取り繕ってできるのかもしれないが、本質的な部分でそれが欠落していると、件の殺人まがいのような事件が起こり社会秩序を乱すのである。



■ワタミに思う雑感

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フードサービスのワタミグループは世間からはブラック企業と認識され、そのワタミグループ会長の渡邉美樹は大バッシングを受けている。会議での「飛び降りろ」発言や、従業員を過労で自殺に追い込み労災認定されたことで、公式にもワタミグループはブラック認定された形となったのだ。

が、自殺の件の事情を情報収集してみると、私は自殺した従業員の問題の方が大きいと考える。

最大で7連勤というのがそれほど苦痛というのは、余程甘い土壌でそれまで生きてきたのだろうと思うのだ。研修後の長時間・大量業務については数をこなさなければ「人材」として最低限のラインに達せないし、休日や勤務終了後のレポート等もあって当たり前だと思う。

それを「異常」だという認識を植えつけてしまったそれまでの人生の指導者にこそ、最大の責任がある。

私が上場企業へ転職後も長期連勤や時間外労働はサビ残扱いであったし、ましてや入社2ヵ月の新人が仕事を覚えるまでは、多少プライベートを犠牲にしてもまず会社が求める能力のラインにまで達してもらわないと困るのだ。そもそもその段階でプライベートを確保できないことが精神的苦痛というのなら、入社前にわかっていれば内定を辞退するべきだし、入社後に判明したのなら辞めれば良い。

また、体調不良を訴えていても会社が適切な措置を取らなかったというのは、従業員の立場であっても対処のしようはある。そんな場面は社会人であればよくあることで、上司がどうこう言っていても自分の裁量で休めばいいのだ。結果的には会社のためになる休息はある。

自殺した従業員が被害者であるという認識が世間では色濃いが、こういう従業員を抱えるリスクは経営者、管理職にとっては大変なものだ。

特に多くの従業員を抱えるワタミグループにおいて、労務管理は現場の責任であり(最終的には代表取締役の責任は追及されるが)、「上司は聖人君子ではない」という当たり前の前提の上で職務に従事しないというのは、社会人としての自覚不足と言わざるをえない。

雇う側と、雇われる側は、雇用契約の上に成り立つイーブンの関係である。採用募集に応募し内定をうけ入社手続きをした責任、雇い入れた責任、どちらも責任があるのだ。

もちろん、渡邉の発言や対応には、特に都知事選に出るような立場の人間としては配慮が欠けていた。政治には強権で決断していく実行力は不可欠であるが、その反面物腰やわらかく調和を図る能力もまた不可欠である

ただ、そういう渡邉のパーソナリティは著書をいくつか読めばあらかじめ知ることができるし、入社する会社のトップの著書くらいは読んで面接に臨んでいるはずだ。辞める選択肢をとらずに自殺を選ぶくらいだから、余程思い入れをもって入りたかった会社だったはずである。

彼の著書にはハッキリと「20代のうちは仕事のことだけ考えろ」「睡眠時間を削ってでも勉強しろ」といった趣旨のことが書いてある。そのストイックな姿勢に感化され入社を希望したのではなかったのだろうか。

仕事人間である渡邉は自分にも他人にも厳しい。著書を読まずとも彼のパーソナリティは広く知られている。「和民」や「つぼ八」に人生で数回しか行ったことがなく、それまで彼の著書を読んだことすらなかった私でさえ知っている。

何も知らずに入社を希望していたのだとすれば不勉強にも程があるし、単に会社をナメきっていたということになる。「夢に日付を」という周知の名言すら知らなかった可能性もある。



■雇われる側は「弱者」か

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推測の域を出ない話な上に、亡くなった方の名誉のためにそうではかったと信じたい。

だがもしそんなナメた人間が実際にいて「弱者」扱いされるのは、決して良い傾向ではない。創業経営者の権限はえてして強いものであるが、だからといって労働基準法という事実上労働者を一方的に守ってくれる法律も存在している。

飲食業界やアパレル業界で長時間労働が当然のように行われていることも、社会人であればよほどの情弱でない限りは知っている。アルバイトの学生でも知っていておかしくないレベルの話だ。

たしかに渡邉は厳しい。渡邉の近くにいる役員でさえ内心ビクビクしながら彼と仕事をしているかもしれない。そしてトップダウンで「渡邉イズム」は末端従業員にまで浸透してくる。恐い渡邉に対し周囲がイエスマンになっている可能性はおおいにありえる。

性格上、言われたことをこなすことしかできないタイプであり、イエスマンにならざるをえないということであれば、「イエスマンの使い方を誤った」渡邉に非があるだろう。想定しなければいけない範疇のケースだ。

彼は自身のイズムを著書やマスメディアを通して世間に認知させることで、一応予防線は張っていたのだろう。

だが、彼には理解できない性格の人間が、彼の下で従事してしまった。管理できなかった責任というより、不運の事故という方が正確だ。

渡邉が学校を設立し教育にも注力していることは広く知られている。原体験から強い意志が芽生えるような教育を行なっているだろうから、きっと上手くいくし将来有望な人材は育つだろう。

だが、社会には温室で叱られることなく育った人間が多く出てきていることを、渡邉に限らず世の経営者、政治家、いや全員が認識しその前提で生きていく必要がある。

ワタミグループが特段、従業員に「自己犠牲」を強制しているというわけではなく、社会で生きていくためには「奉仕」の価値観がどうしても欠かせない。

社会がそれを「悪」とするならば、社会はその過保護を容認し維持するだけの超高福祉に向かわなければいけなくなる。消費税10%どころでは到底済まないだろう。

家庭や学校教育で「生きる力」をしっかり育てられていないことが最大の「悪」であるのに。そのしわ寄せが世の経営者達に向かっていくのはひどい話である。

もちろんか弱き者への思いやりや、配慮はあって当然だ。



■それでも「ゆとり」はブラック企業で人格をズタボロに破壊されるべき

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だが、残念ながら社会はそのレベルを過保護に守りきれる程、発達していない。産業構造の問題や教育問題、家庭教育の問題、さまざまな要因があるが、そのしわ寄せが明らかに企業とその経営者に集中している。

企業の研修というのは、業界特有に必要な知識やスキル身に付けるものであって、人間教育ではない。だが現実は人間教育までせざるをえない状態だ。

従業員は、社長が本来行なっていた仕事を社長の分身として分業代行する会社の歯車である。そのために時間と労力を費やす対価として給与を得るという契約関係だ。まずそのことを認識していない世の会社員は多いのではないだろうか。

そして、社長の手足となって働くためには、会社という名の郷にしたがわなければならない。建前であっても、社長と同じ考えを持って、必要とされるスキルを身につけなければいけない。そのために社内教育にもコストはかかっているのだ。

会社が間違った方向にいかないために異を唱えるのは株主であり、取締役であり、監査役である。それは従業員の役目ではない。したがって、会社のイズムを共有できないのであれば会社を去るべきなのだ。

それでも会社で、社内でも社外でも通用する人材として働きたいのであれば、たとえ人格を全否定されてでも、会社のイズムと必要な能力を身に付けるための器を持たなければいけないのだ。

冒頭で述べたような私の経験上、特にあまり叱られずに育ち己に非があるというセンサが機能していない人間においては、ブラック企業と呼ばれる環境で人格の矯正をしっかりしてもらうべきである。

会社として成長していて、他の役員が愛想をつかして崩壊しているような会社でなければ、トップが異常だという認識をまず捨てるべきだ。

生きるということは七難八苦の連続だ。艱難辛苦に苛まれながらも、乗り越え生き抜いていかなければいけない。

その中では当然、競争が起こり、淘汰も行われる。淘汰された者を救済するために社会保障が用意されているし、そのセーフティネットは決して形骸化しているわけではない。

私は家庭教育、学校教育が元凶だと考えているが、個々の責任感を育てることで改善できる。

まず「親としての責任」だ。わが子に社会で生きていける力をつける教育をする責任。自然とその責任が持てるのが望ましいが、できていないというのであれば刑罰化、あるいは新しい憲法や法律、条例に理念やあるいは義務として盛り込むべきである。

そして義務教育の現場においては、大阪市のように教員に点数を付ける形での「教育者の責任」を背負わせる。

よくある批判はほとんどが責任逃れで教育が中身の無いものでもかまわない、受験に通用すればいいという、社会を堕落させる反論しかない。

受験や最終学歴に重きがおかれる社会通念があることも大いに問題である。

そういったそもそもの教育がまともに受けられなかったかわいそうな世代には、残念ながら会社の上司がその教育を施さなければいけないのが現状だ。

だから、入社した会社がブラック企業だと感じたら、まず自身を省みて足りない部分があるのではないかと疑う目をまず持つこと、そして本当にヤバイ会社だったとしたら労基法を盾に人生の進路を大きく舵切ることだ。

たいていの場合は前者であるから、一度正しい(会社で正しいとされている)価値観を受け入れるために器を空にする、つまり自分の人格を殺すことだ。

過激な言い方かもしれないが、それが近道なのだ。これが30代になればもっと修正がむずかしくなる。手遅れになる前に、生きていきたければ自分を殺すのだ。自殺ではなく、自身の成長を妨げているちっぽけなプライドを殺すのである。



亡くなった元和民従業員の女性には、心からお悔やみ申し上げます。




ワタミさんのマインドは、好き・嫌いという観点ではなく、自分の可能性を伸ばすために一読しておいて損は無い。本書が人生のバイブルになる人もけっこういるはず。