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数々の名言からわかる織田信長の人物像

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信長の名言からその人物像に迫ろう。教科書ではわからない史実の裏側、というか信長の内面に注目してみる。

 

「是非に及ばず」

本能寺の変で謀反を起こしたのが信頼していた明智光秀であったことが判明し自害する前に残したとされる最期の言葉。解釈には様々な説があるが、筆者の解釈は「是非を論じることもない、私自身にすべての非があったのだ」というものだ。「部下の非はすべて私の責任だ」と潔く言い切り責任を取れる上司、現代ではあまり見かけないが・・・。

 

「死のうは一定、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすよの」

人は必ず死ぬのだから、自分の死後にも語り継がれることを成し遂げるために何をしようか、後の世の人は自分の功績をきっと語り継いでくれるだろう。という信長が好んだ小唄。死の観念があるからこそ、逆算して人生設計を立てられたのだ。

 

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」

人間界の50年は天界では一昼夜程度の長さでしかなく、まさに夢や幻のようである。この世に生まれ、滅びないものなどいない。 信長は桶狭間の合戦の前に「敦盛」(幸若舞)を三度舞って出陣したが、「諸行無常」を描いた『平家物語』の影響を強く受け共感していたと思われる。

 

「臆病者の目には、全て敵が大軍に見えるのだ」

いつもビクビクと臆している者は、たとえ敵が弱くても巨大に見えてしまう。弱腰になっている部下を奮い立たせるよき上司の言葉である。

  

「人城を頼らば、人城を捨てん」

 人間が城を頼りにすると、かえって城が人間を捨てるようになる。ちょっと意味が伝わりづらいが、城など頼るな、つまり自分の力でなんとかしろって意味だ。信長の家臣たちは意外と弱気な武将が目立っていたのかもしれない。

 

「器用というのは、他人の思惑の逆をする者だ」

そのままの意味で、裏をかくことが器用ということだ。駆け引きや戦略で天下を取った信長の頭のキレはなかなかのものである。現代で戦国シミュレーションが人気を博しているのは、こういった戦略を企てるところにおもしろみがあるからである。

  

「攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな」

 余計なことは考えず、目標に向き合いそれのみに集中しろということ。特に劣勢の場合はあれこれと「たし算」で切り抜けようと考えがちだが、「ひき算」でシンプルな勝負に持ち込むことで勝機を得られる。

参考:ランチェスターの戦略

 

「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」

ただなんとなく抜け殻のように日々を過ごす人生はどう考えても輝いてなどいない。特に戦国時代は仕事が命のやりとりであり、文字通り必死である。ちょっと命の危険を感じるくらいの方が思考も視野も研ぎ澄まされたりするが、環境や時代は平和であっても意識の持ちよう次第だ。洗練された思考回路でものごとをとらえれば光り輝く生涯を送れる。

 

「仕事は探してやるものだ。自分が創り出すものだ。与えられた仕事だけをやるのは雑兵だ」

現代でも同じことを指摘された人は多くいるだろう。ただ、人間には種類があって、言われたことだけをするような思考回路で生きている人もまた必要である。雑兵と罵られようと、雑兵は必要な存在だ。当然自らやりたい仕事を創り出すより高度な役割も必要だから、そうなってほしいという信長の期待の表れだろう。信長が家臣に恵まれたのは、こういった鼓舞があってこそだ。

 

「戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ」

 信長が天下を取ったのは、この意識があったからだ。孫子の兵法に基づいた旧来の武田勢力を打ち破ったのは、信長の斬新な戦術によるものである。また、本拠地を美濃(岐阜)に移したことも戦術的には当時革新的であり、次に狙う大名家までの移動で兵力が消耗しないよう努めた。また、他の大名は地元の治水等に力を入れていたが、信長は占領地の開発も行った。占領地を「外様」扱いしないことで、配下の士気も上がったのである。

 

「俺が見事な弓矢をとることができたのは、皆、政秀が諌死したからだ」

信長の教育係だった平手政秀は、奇妙な格好と行動で「大うつけ」と呼ばれていた信長を諌めるため自ら切腹した。 

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「およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。いまその方の功名は軽率な動きである。一方の大将となろうとする者は、そのような功名を願ってはならぬ。身の危ういのをかえりみないのは、それほど手柄と言うことはできない。今後はこの心を忘れるな」

欲を前面に出して功を焦るなという戒めの言葉。名ではなく実を重視せよというのは、今の世にも通じるところである。特に学歴社会における論壇では、名に固執する傾向が顕著に見られる。

 

「絶対は絶対にない」

 なるほど、矛盾してるけど言いたいことはわかる。決めつけや先入観を排除した方が、成功の障壁を取り除ける。

 

「愚かな間違いを犯したら、たとえ生きて帰ってきてもわしの目の前に姿を見せるな」

息子が戦に出るときに信長が言い放った言葉。緊張感の中での判断とその経験は、人を成長させる。逆に「ミスしてもいいから思い切りやれ」というパターンもある。対象の性格によって使い分けると良い。

 

「たしなみの武辺は、生まれながらの武辺に勝れり」「恃むところにある者は、恃むもののために滅びる」

努力して得た能力は、生まれ持った能力よりも優れているという意味。生まれながらに才能のある者はそれを頼んで鍛錬を怠りがちであり、えてして自惚れるものだ。しかし、生まれつきの才能がない者は、何とか技術を身につけようと日々必死で努力し向上しようとする。努力で成果を残したタイプは、天才タイプよりも人材育成における能力に長けている場合が多い。

 

「組織に貢献してくれるのは『優秀な者』よりも『能力は並の上だが、忠実な者』の方だ」

優秀な者ばかり登用する方法は間違いだ。「優秀な者」は同時に「怖い者」でもある。忍者の加藤段蔵は、優秀すぎて上杉家を追いやられ、移った先の武田家でもその才を恐れられ殺されてしまった。長い目で見れば組織に貢献するのは「優秀な者」よりも「能力は並の上だが、忠実な者」の方である。

参考:日本の忍者まとめ

 

「いつの時代も変わり者が世の中を変える。異端者を受け入れる器量が武将には必要である」

 変わらなくて良い仕事であれば、画一的な人材を集めれば良いが、「変える」ことが目的であれば多彩な人材を集め軍議をした方が攻略の精度は上がる。信長自身が異端児であったために、天下統一の礎を築けたことは周知のとおりである。

 

「理想を持ち、信念に生きよ。理想や信念を見失った者は、戦う前から負けているといえよう。そのような者は廃人と同じだ」

理想や信念を見失った者は、戦う前から負けていて、もはや廃人である。理想を持ち、信念に生きるべきなのは今も昔も変わらない。

 

「人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である」

指示されたことだけを言われるがままに実行するだけでは、誰がやっても同じだ。内面から能動的にものごとに働きかけることでよりよい成果を挙げられる。言われたことだけをするような人間にはなるな、という信長のスタンスがわかる言葉。特に現代では、指示されたこと(プログラム)を実行するだけならコンピュータやロボットに置き換えられてしまう。

 

「人を用ふるの者は、能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん」

人を雇用する者は、能力の有無を基準に選ばなければならず、勤務年数の長さを判断基準にするべきではないということ。信長が能力主義をとっていたことがわかる言葉である。

  

「藤吉郎(秀吉)は何が不足なのか。浮気など言語道断です。しかし、やきもちはいけない。夫の世話をちゃんとして、言いたいことがあっても言わない方がいいでしょう」

夫に対する愚痴を信長にぶちまけたねね(秀吉の妻)に送った手紙に添えた言葉。現代であればフェミニストから抗議の嵐が吹き荒れそうだが、合理的に本質を踏まえた役割分担を指示していると考えれば頷ける。

  

「これ(木綿20枚)を売って彼に小屋を作ってやり、飢えないように食べ物を分け与えてくれれば自分はとても嬉しい」

とある村を通りかかったときに家もなく体も不自由な男をみかけて、村人に行った言葉。弱い立場の者を無碍にしない性格が現れている。

 

 

以上を踏まえての信長の生涯要約

1534年、尾張那古野城にて織田信秀の嫡男(三男)として生まれる、幼名は吉法師。後継者として育てられたが、奇行や奇抜な服装から「尾張の大うつけ者」と評され、信秀の急死により家督を継いだ後も奇行が続いたことから、平手政秀が諌めるために切腹した。

 

信長は母親の愛が弟に偏り、愛されなかったと言われている。本拠地を地元ではなく美濃(岐阜)へ移したことからも、家族愛や地縁といったものにコンプレックスに近い感情を持っていたのではないかと推測される。

 

1560年、桶狭間にて圧倒的戦力差(織田:3,000 vs 今川:20,000)を奇襲で切り込み、大将の今川義元を討ち取り勝利。松平元康(=徳川家康)と同盟を結んで尾張・美濃を平定した。桶狭間の印象が強いが、信長は基本的には大兵力で敵陣を駆逐していった堅実な戦略家である。

 

1568年に上洛。以降、浅井家、朝倉家、三好家、武田家などの勢力を攻略していった。他の大名家は地元の領地を守ろうとしていたのに対し、信長は海外を視野に入れ日本の統一を目指した。つまり、信長以外の大名家は地方豪族にすぎなかったのである。家康も同じだったが、信長を近くで見ていたことで江戸に本拠を構える発想が持てたのだろう。

 

特徴としては、制圧した国の武将を傘下にするのではなく、殺しているところである。家康や明智光秀のような良家の生まれもいるが、秀吉の登用や異端を受け入れる精神はやくざ的であり(前田利家が家臣だったことも含めて)、創業メンバーに恩恵を与える姿勢はベンチャー企業の社長が独立志向のある人材を集めるような精神である。

 

だからこそ、明智光秀の謀反は大変なショックであったのだろう。殺されていた展開であったが、それ以上に自害を決意するには十分すぎる出来事だったはずである。

 

民衆の信心の対象でもあった比叡山延暦寺の焼き討ちで宗教団体の武装勢力を駆逐したり、楽市楽座令による商業自由化で経済の発展に貢献するなど、改革者としての功績は日本史においては随一である。

 

歴史は変わって大衆迎合が政治家の基本となった現代では、やはり異端として扱われるであろう信長は、戦乱の世に生まれて正解であった。

 

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【関連作品】

信長の真の性格をとらえているであろう作品。

原作がすばらしいが、アニメ版のクオリティの高さは特筆に値するのでぜひブルーレイで観てほしい。

(参考:織田信奈の野望がおもしろい