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いろいろな「はてな」に触れるブログ

基本的には自分用メモの公開版です。オピニオンも書いていくかも。

「愛国心」という習性


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■「ナショナリズム」の定義

始めに断っておくが、「ナショナリズム」と「愛国心」は本来別モノであり、後者に含まれる「国」には「郷(郷土・パトリア)」という意味が本来込められている。「愛国心」を横文字にしてナショナリズムと対比させるなら「パトリオティズム」という表現・区別が本来通説とされているところだ。

だが、このエントリを書いている現代においての愛国心が指す「国」は国家であり、国家への帰属意識がナショナリズムであることから、「ナショナリズム」に「パトリオティズム」を含めて「ナショナリズム」と表現している部分が多くなると思う。したがって、「愛国心を根底に置いた主義主張=ナショナリズム」と解釈し読んでいただけると、本エントリの主張を理解していただきやすいだろう。



■「愛国心が無い」への指摘

さて昨日、割と先進的な考え方をもっているであろう佐々木俊尚@sasakitoshinao )へ以下のリプライ

@sasakitoshinao 佐々木さんにいまだに国民・国家の概念がこびりついていることが意外です。当方1982年生まれの日本人ですが、愛国心は無く日本国家とは納税と引換に治安を提供してもらっているというドライかもしれない関係しか、もはや無いという感覚で生きています。

を飛ばしたところ、それがRTされ佐々木が抱える多くのフォロワーの一部から直接、あるいは間接的に反論や指摘、同意のツイートをいただいた。

佐々木はインタラクティブなツールの利点を最大限活かし諸々の反応を見ながら自身の意見を述べていくので、良くも悪くも氏の興味を引ける発言だったのだろう。そしてその反応が否定であれ肯定であれ、自身の視野を広げる糧となることに感謝の意を表したい。



■日本人は日本を愛すべきか

さて、発言の内容についてだが、私には本気で「愛国心」というものが無い。

たまたま生まれた国が日本であり、当然日本語を話し続け、幸運にも治安が良く、幼少期から慣れ親しんだ食文化の中で生きていくことがベターだから、今も日本人として日本で生活を続けているというだけだ。

地元への愛着も無ければ、日本という国への愛着もまた持っていない。今住んでいる都心はいつでも何でも徒歩圏内で揃うから便利だなと思っているくらいだ。

小さな頃から買い物をすれば間接的に消費税を納めていたし、就労や経営、保有資産を通して諸々の納税をしてきた。その見返りとしての行政サービスを受けている「ギブアンドテイク」の関係にすぎないと本気で思っている。

「国家」と「国民」、「都」と「都民」、「区」と「区民」の関係に精神的な帰属意識は無く、血縁や家族のような切っても切れない心の結びつきがあるとも持っていない。「◯◯出身」というものにもアイデンティティ的な価値を置くこともない。

愛国心の「愛」という言葉の捉え方によっても解釈や感覚が異なるので、咬み合わない議論が生まれるのは当然なのだが、自らを犠牲にしてでも生存させたいわが子への本能が「愛」だとしたら、その「愛」を日本という国に抱くことはできない。



■ギブ・アンド・テイクの関係としての国民と国家

このことについて下記のような指摘があった。

納税と引き換えに治安等を手に入れてるだけの感覚、って市民権そのものじゃん。そこには共同体による資産や時には生命の償還というのが付属されるだろうに。その時、どの共同体にであれば許容できるかが、ある意味愛国心に近しい感覚だろうに。今時のガキは選択だけ出来てると勘違いしてるんだなw

この感覚がイコール「愛国心」だとは思わない。というより、「愛国心」の定義をいくら時間をかけて他者と議論しても結論は出ないだろうが、少なくともそれは一種の契約関係に近いものにすぎず、たとえば有事の際に命をかけて国土を守ろうという「愛国心」は一切持ちあわせていない。他方、もし「有事の際には日本国のために玉砕せねばならない」と予めルールとして定められていたとするならば、愛国心は無くともそれに従うだろう。

「国籍」についても、生まれた時に決まっていた規定にのっとって現在日本国籍を有しているというだけにすぎず、ルールとして日本国のために死ねと言われれば、強制なら守らざるをえないし、強制でないなら海外へ出るだろう。屁理屈に聞こえる人には断っておくがこれは純粋な本音であるし、両親や知る範囲での親戚も全員純粋な日本人である私のような立場であっても、こういった考えを持っているのだ。

私は学生の頃から石原慎太郎の「亡国の徒に問う」や姜尚中森巣博の「ナショナリズムの克服」などのような書籍は割と好きで読んできたし、反米を掲げ闘争を繰り広げた左翼と言論派右翼として今も活動している鈴木邦男の両者へのインタビュー取材を通じて「あさま山荘事件」を多角的に分析するという試みをしたこともあった。

冒頭でも触れたように「ナショナリズム」が持つ意味は多岐に渡り、人によって解釈も言説も異なるが、私は単純に「帰属意識」のひとつだと定義している。出身校だったり、家族だったり、サークルだったりと人によって様々な帰属意識があるが、それを国に置いているのがナショナリズムだと解釈している。

ちなみに、民族や宗教、言語の共通性を持った共同体をナショナリズムと定義している人もいるし、国土の範囲内で血縁・家系が継承され今に至る(あるいはその幻想を)その集団が共有している帰属意識をナショナリズムと呼んでいる人もいる。

古く源平の時代には「やーやーわれこそは◯◯出身の××である」と宣言してから一騎討ちをしていたし、現代においても自己紹介の際には出身や現在の所属をあわせて言うのが慣例だ。国内であれば出身都道府県を言うだろうし、国外に出れば「日本から来た◯◯と申します」ということをその地域の言語で話すことになるだろう。



■「属したい」が多数派であり普通とされる社会

社会的な意味合いを考えた時に、帰属が個人の信用にもつながることも多々ある。出身の住所が上品なエリアなのか、被差別部落なのか。最終学歴が中卒なのか、東大卒なのか。勤務先が零細企業なのか東証一部上場企業なのか。

帰属は人を相手にした場合には共通の話題を見つけ親睦を深めるためには極めて重要な材料となる。企業へ就職する際、金融機関から借入を起こす際、著書に最終学歴を記載する際、帰属や経歴はその人物を知る大きな判断要素となる。SNS上では帰属の記載が何も無いときっと孤立してしまうのではなかろうか。

信用を獲得するための帰属は必要であるが、それは事務的かつ客観的に個人を量る判断材料として必要なのであって、精神的な結び付きを持っていないというのが今回私が言いたいことであり、私のパーソナリティーだということだ。

つまり、帰属というものを精神的な拠り所とするのではなく、生きていく中での通行証、あるいは免罪符として合理的に獲得し掲げるためのツールとしてとらえている。

もちろん帰属がその人物の人格を形成する要素であることは理解しているが、そのことで国家と国民の間の関係性が「愛国心」で結びついていることには否定的だ。



■日本チームを応援するのが当たり前なのか

また下記のような指摘もあった。

五輪やW杯で日本人を応援しないのかな?表彰式での日の丸に感慨を持たないのかな?それも愛国心の一部だと思うけどRT @ma_co_chi: @sasakitoshinao …1982年生まれの日本人ですが、愛国心は無く日本国家とは納税と引換に治安を提供してもらっているという…

これについても全くしない。チーム(国)を応援することは稀で、好きな選手個人を応援することの方が多い。好きな選手が多く在籍しているチームは応援するかもしれない。

この選手とは、日本人・外国人を問わない。

また、貸切2階建てバスで酒を飲み騒ぎながらサッカーの国際試合で盛り上がって「ニッポン!ニッポン!」と歩道に向かって煽り立てる連中を、冷ややかな目で見ていたりもする。

自国の選手が相手国のラフプレーで負傷すれば、場外で両サポーターが乱闘騒ぎになることもある。国の危機や利益を国際ルールを無視して主張する選手もいた。

その断片だけを見て「愛国心って下品だな」と思うことさえもある。無論、純粋に生まれた国とその環境の保全のために、国土である路上の清掃を無償でしたり、旅行で来日している外国人に道を案内してあげたり、海外メディアのカメラが向けられている場で襟を正したり、そういった行為については好ましいことだと思う。

多くの場合、ナショナリズムとは感情であり、精神である。特定の国に在籍していることに誇りを持っているし、その国を脅かす者を排除しようという動きも見られる。

そしてそれは世代によっての差でもないと思っている。同学年の宇多田ヒカルは自ら「愛国心あるよ!」と宣言しているし、たまたま同級生のSNSアカウントを見つけた時にアイコンに日の丸がついてたこともある。


@ma_co_chi そうなんですか…。まあ、そういう人が居てもよいとは思いますよ。強制されるべきことでもないし。ただ、自分が日本人であることが どんなに幸せなのかを一度振り返ってみても良いんじゃないかな?

という意見もいただいた。

私は国は国民の物理的な安全と所有権を守るために徴税システムを有して、それを使い行政サービスとして還元していると考えている。
(参考:2012-09-13 石原伸晃の諸々の発言を受けて思うこと http://d.hatena.ne.jp/ma_co_chi/20120913/1347536419

そして、諸外国よりも秩序ある社会と治安の中で安心して暮らせていることには幸せを感じているし、そういった社会を形成するために尽力し犠牲となってきた先人達には感謝している。

だが、その幸せはデンマークでも享受できるかもしれない。
(この一言で私の主張はおおかた説明できていると思うw)

かつての帝国主義の時代には政策として国が一丸となって植民地化を防ぎ、列強として国家の生き残りをかけた。教育も一定レベルの教養や思想を持たせることが富国強兵の一環であった。

過去の歴史を振り返れば、「ナショナリズム」や「愛国心」というのはどちらかというと政治利用されてきた面が強い。そもそも冒頭で述べた「国」や「国家」にも行政機能としての意味と、国土に由来する連綿たる帰属意識の意味とで混同しがちだが、私はそのどちらにも自身の精神的な拠り所を置いていない。

本能的に備わっている帰属意識と、人為的に刷り込まれた帰属意識は、当然のことながら分けて考えるべきだ。また、DNAに刻み込まれた絶対的な帰属意識と、社会における相対的な帰属意識でも分かれてくる。

地縁に縛られてそこに永住する種族と、新天地を求めて移動する種族とで本来そなわっている遺伝子構造が違うのだろう。

余談だが、ジブリ映画『もののけ姫』でモロが「森と共に生き、森が滅びる時は共に滅びる」と言ったが、これは自然界にも同様の本能的な行動原理の違いが存在することを示唆している。人間との共存を選んだ動物もいれば、縄張りから離れず絶滅した動物もいる。



■「国」でくくることへの違和感

このエントリは本来私が意図した方向とは違う側面を指摘されたために更新したものだが、もともと私が佐々木に皮肉を混ぜたリプライを送ったのは、国民・国家の枠組みを前提とした「◯◯人」という表現に反応したからだ。

そうではなく、その国の中で特定のイデオロギーを持った集団による行動と、国家を結びつけて考えるのはいかがなものかという考えによるものだった。もちろん佐々木は

「中国人を追い出せ!」と熱狂的に叫び、他者を売国奴呼ばわりしている日本人よりも、冷静な対応を呼びかけてる中国人発言者の方に(当たり前だけど)ずっと親近感を抱くし、同じ価値観や皮膚感覚を感じる。「同じ日本人である」というのは本当もう無意味だな。

と「◯◯人」の枠組みの無意味さを主張している一方で、前後のツイートや過去遡っての発言の中にはいまだに「国民・国家」というものを前提にものごとを考えていることが垣間見えていて、それに違和感を感じたということだ。これは私の思い込みにすぎなかったのかもしれないという自省がある反面、氏がその後のツイートでもしていたように「カテゴライズすること」の危険性については同様の違和感は払拭できていない。
(カテゴライズについての違和感を「国民・国家」云々の文脈で返したことは間違っていたと思っている)

仮に今回の中国の暴力的デモの主導者が中共だとしても、国対国という対立軸ではなく、特定のイデオロギーの衝突だととらえるべきだという私の個人的な主張が根底にあるのだ。

これが特定のイデオロギーのもとに組織されたテロリスト集団である場合もあるのだし、「国」という枠組みを前提にとらえてしまうと本質を見失うことになる。かつての9・11事件の対立軸はアメリカvsアフガニスタンではなく、シオニズムvsイスラム原理主義であって、たまたまそれらのイデオロギーを持った者がアメリカのブッシュ政権やアルカイダをかくまったアフガニスタンタリバン政権という形でそれぞれの国に権力者として帰属していただけの話である。

つまり、「国」という記号に対して攻撃をし、あるいはターゲットとされることで、無駄な犠牲を多く生んでしまったことに私は最大の「国民・国家」という概念の罪があると思っているし、過去の歴史の教訓を活かせていないことに強い憤りを覚えている。

国が国民が起こした行為の責任を取って(ケツ持ちをして)、国として外国と戦争を始めるということがあっては、それはヤクザの世界と同じになってしまう。つきつめて考えていくと、「愛国心」とはヤクザ的な暴力装置と密接に関わっていて、右翼とヤクザが混同される大きな原因ともなっている。

ちなみに今回は幸いにしてアイコンに日の丸のついた人から「愛国心」を強要されることはなかった。そして私の考えに否定的な人からも「そういう人がいてもいいと思いますよ、強制されるものでもないですし」という声をいただいた。否定・肯定の比率は確認できているサンプル数が少なくてなんとも言えないものの半々だった。



■近隣諸国のナショナリズム

客観的に日本を見た時に、日本のナショナリズムは日本語という言語で結びついた感情なのではないかと考えている。

肌の色や顔の系統といった見た目においては、中国や韓国と大きな差はない。

中国は共産主義という理念で、韓国には反共(北朝鮮)という理念
での結び付きがあった。冷戦終結によってその理念が瓦解し、それによってともに「反日」という理念に比重が傾いた。

この体制は当分続くだろう。というか世界地図が大きく変わるまでずっと「反日」路線で国をまとめていく可能性が高い。隣国との外交は注視していく必要がある。



■個人的な日の丸・君が代への思い

ちなみに、日の丸についても特別な思いを抱くことはないし、歌うのがルールになっている場面であれば抵抗なく歌う。「君が代」は詞の意味はさておき、雅楽の響きはとても好きだ。

君が代を歌わない、日の丸を掲揚しない、という行為や意思表示についても特段何も思わない。歌う・掲げるのがルールなら守るべきだし、ルールが無いなら好きにすれば良いと思う。もし私の目の前で日の丸を燃やされることがあっても、燃やしているのがアブナイ人だとは思うものの挑発行為だとは思わないだろう。

私のアイデンティティやパーソナリティの構成要素においては、「日本人」であることに大きな比率を置いていない。もし海外で暮らすことになったとしても、自ら「私は日本出身だよ(ドヤァ」とか「日本の料理作ったの、食べてみて」という形では交流しようという気は無い。もっとも、そういうつもりはなくとも海外のローコンテクスト社会では否が応でも周囲から求められそうさせられるのだろうけど。


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